アーカイブ2022年

  • その129: 徒然草とデータマネジメント

    徒然草は、日本文学史全体の中での分水嶺として位置付けられる、十四世紀前半に兼好法師により書き綴られた随筆集です (※1) が、全二百四十三段に渡るその中には考証文として分類される内容も含まれる。その中に綴られる文章を読む中で連想した、技術およびデータマネジメント標準化の考え方に繋がる話題を、関連文段を取上げつつ進めたいと思います。

    徒然草の第二十二段 には「何事も、古き世のみぞ慕はしき」の書出しで始まり「今様は、無下に卑しくこそ成りゆくめれ。かの、木の道の匠の作れる美しき器物も、古代の姿こそ、をかしと見ゆれ」と続きます (※2) 。 そして体験からきた考証話題 として幾つかの段が書かれています。ここでは個々の内容には直接触れませんが、ポイントとして「あるべき世界と今様(いまよう)の乖離」が表現されました。勿論これはデータマネジメントを意識したものではなく、古典を参照する読者側として思い浮かんだ風景です。筆者としては、今様的文化の取上げ方が、IT或いはデータ処理技術の新技術が必ずしも新しいことで一時的に持て囃されるべきではなく、古典としてあるべき姿である「標準」を大事にしてこその新しさであると考えられました。ともすれば「新しさ」はそれだけで商業的・話題性的に大袈裟に取上げられがちと筆者には捉えられますが、それは継続性を踏まえての意義を考慮してこその価値だと考えられます。

    勿論、古ければ何でも良いということではなく、利用継続されている古さを標準とし続けることにも問題が起きることはあり得ます。時の移ろいを見据えて、単に古典的標準を良しとするのではなく、新しさの良い点を見据えながら古きの側からの歩み寄りを期待するものだと言えます。技術の提供者側からの一方的な宣伝に惑わされず、例えばエンタープライズ・アーキテクチャ(EA)というような、利用者側から捉える標準維持の視点を基準にした上での新しさを考えるという見方は、技術利用の世界に留まらない古くからの文化的考察から繋がっているものだと思えたのが、今回の筆者の感じた面白さという点でした。このように見ることで、文系的発想と技術的発想との共通性を理解しやすくできるのではないかという訳です。

    こういった見方を取入れることにより、「純粋に技術的なアプローチだけで新規の価値や方向性を議論するのではない考え方」が様々な立場の人達に受け入れられる基礎になって欲しいものです。これは、往々にして新技術一片道から議論が進められることの危うさを避けることにも繋がるものと筆者には思われました。データマネジメントの基本要素を大事にしつつ新しい話題にも取組むという姿勢を見直すという意味を、立場を越えて共有化したいということです。

  • 注※1 「方丈記」と「徒然草」 2018年、放送大学教育振興会、島内裕子著、第7章~
     ※2 「徒然草」 2021年 第16刷、ちくま学芸文庫、兼好著、島内裕子(校訂、訳) p.60
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  • その128: AI/DX技術の進展と「無記」性という考え方

    2020年代の年を重ねるにつれて、 AI技術とその基盤であるIT技術の利用は、DX応用という意味で随分と広がってきているという実感を持つ方が増えていることと思います。ハードウェア(HW)の進展と必要なコストが下がってきた点と、それを利用するための基本技術が利用しやすい形での広まりというのがその要素となっているといえます。ところで、開発される「基本技術」そのものには善悪といった概念は存在しません。ある基本機能を実現する、或いはその実現の一要素となるのが基本技術です。これを仏教用語を利用して表現すると「無記(むき)」の言葉が適用できるでしょう。今回は、この点について考えてみます。

    技術そのものに善悪がないというのは、先の無記で説明すると次のような喩えで表されます。今「包丁」という器具を見たときに、これは本来はモノを切り刻む用途を手助けする基本技術として有用性が高い道具です。しかしこれを利用する人によっては、何らかの犯罪での凶器として使われることも実際の世の中にはありえることです。つまり包丁そのものが提供する機能には、本来そういった使い方は想定されたものではありませんが、それを利用する側のヒトの意図によって悪として使われる場面が存在し得るということになります。ここでポイントとなるのは、使う側の意図(或いは大袈裟にいえば「哲学」)によって、その機能利用を通じた結果の善悪が変化するということです。いってみれば「できること」と「すること」との違いともいえます。

    この話題を取上げたきっかけとなったのは、最近次のようなネットでの記事を読んだからです。AI技術、特に画像/動画への応用が拡大する中で、画像を通じて、何が写っているかとか、ヒトが何をしているか等を把握できるといった応用があります。身近な例えで見ると、最近急速に増加している中国国内のコンビニエンスストアチェーンでのAI画像認識での利用場面が思い浮かびました。そこでは画像分析を通じて、店内の床に落ちているゴミらしきものを認識し、AIを通じて店員に拾得を指示するとのことです。また店員の働き具合分析などにも利用するとのこと。そしてそれらの指示を直ちに従わない場合や、働き具合が良くないと判断された店員の給与を減らし罰則として適用する。こういった数々の管理業務への適用の行き過ぎが発生し、店員の定着率が大きく下がっているという記事でした。筆者には、これができることと、することとの違いとして写った訳です。

    一つの利用分野の記事を元に身近な利用例として説明した訳ですが、要は技術の進展により「できること」とそれを実際場面に「使うこと」とには大きな違いが存在するということに焦点を当てたいのが、今回の視点です。どういう技術適用利用の仕方をするか、そしてそれをどう評価・管理材料として利用するかは、それこそ応用する側の「哲学」の問題に属するものといえます。この応用方面の善悪評価は、結果をどう適用するかの社会的・組織的判断に関係するという課題の投げ掛けです。これは特に様々なソーシャルネットワーク・サービス(SNS)の応用方面にも繋がる視点だと思えます。

    技術利用範囲は、今後益々可能性を拡大する方向にあることは否定できない流れでしょうが、それをどう応用し、適用判断するかは社会性の環境に関係するものです。何でもかんでも企業内利益優先で判断し使って行くという価値観に縛られること無く、個人から見て住みよい社会構築のための技術として応用していって欲しいという点が今回の筆者からの期待です。
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  • その127: 見かけの利便性とマネジメントの狭間

    ここのところ、デジタル庁が設けられた影響によるものと思われる、政策の延長としてマイナンバカードへの機能集中化の話題が目立つようになってきました。マイナンバを利用した税務政策との連携(金融関係の個人連携・把握)、住所移転管理連携(転入・転出事務連携)、健康保険証機能の連携・取込(2024年秋に、これまでの保険証廃止との発表も)、そして免許証の取込といった内容です。このマイナンバカード発行を拡大するためのポイント提供といった仕組みも進められています。保険証廃止ということになれば、任意のカード発行が必須化につながる可能性が高まります。

    これらの機能の統合化アナウンスは、デジタル庁の存在意義を広める施策へ繋げる話題と筆者に感じられますが、免許証機能との連携ということ迄になると、どこまでデータのマネジメントを見据えた政策化なのか、大きな疑問を感じざるを得ないというのが筆者の本音です。利用者にとっても、免許証を運転時に常時保持しなければならない義務を考慮 すると 、好ましい方向ではないと思われます。スマホにマイナンバカード機能を持たせるという話題も出ているため、その面からの安全性上の不安も与えることになりそうです。官公庁主導の事務機能支援と生活者視点での現実的な利便性というのは相容れない点があり、官公庁目線を主体にした機能実現優先という考え方には、無理があるのではないかと筆者には思われます。

    データマネジメントの点からは、幾つかの課題が見られます。それらの幾つかを列挙してみると、 (1)各機能の持つライフサイクル視点の不透明さ (2)大きく異なった機能の事務的/システム的連携の方向性の曖昧さ (3)機能統合実現までの時間軸の計画拙速度、といった点が大きな項目です。 第1の点は、先に上げた諸々の機能が提供している期間の区切りという要素です。例を具体的に挙げれば、更新手続きがあります。各機能には、これまでの事務的要素からくる情報の更新期間というものがあります。例えば、住所管理は必要都度、健康保険証は2年、免許証は5年といったような点です。 これらは各担当組織が個別に事務処理を受け持ち、異なるライフサイクル手続きを吸収してきています。これまでの流れを踏襲すると、単に既存事務をそのままにして更新結果だけをまとめて管理しようという考え方が主導になりかねません。そうするとマイナンバに紐付けられる内容がどこまで適時性・最新性を保持できるかが不透明度を生みそうです。利用者メリットには繋がるかは疑問を生みそうです。

    第2の点は、データガバナンスの話題とも重なります。大きく異なる事務機能の結果を担保するための方針決めや責任を誰が持っているのかが見えてこないという点です。これをシステム担当企業に丸投げするようでは、最近実質的な失敗プロジェクトで言い訳とされたように「データが不統一で散在しすぎている」という説明を聞いて終わらせるということになりかねません。また、これまで各業務要素を受け持っていた組織からの「方針に関する反対意見(方向性の違い)」も想定されます。免許証などは、早速方針の違いといった話題が出てきています(10月14日現在、時事ニュースより)。

    第3の点は、初期のシステム的な実現立ち上げ時期に焦点を当てた政策的な発表が優先されており、マスメディアからもそれをニュースとして流すだけに見える状況です。従って、どちらかと言えば期待時期目標が一方的に設定され開示されているように感じられます。こういったプロジェクトは、外部からみたシステム的な開始時期は、文字通り単なる「始め」であり実はそれからの道のりが遠いというのが、筆者の経験からの見方です。取り扱う規模が大きくなるほど、その乗り越える山は険しいといえます。この点については、誰もが知っている大都市銀行のシステム統合が、未だに燻っているという状況がある点を強調すれば事例として十分でしょう。いわゆるマスコミから流れる情報は、結果だけを話題にするのみであり、当事者としての視点に欠けるものです。トップで音頭を取っているXX担当大臣の立場から来る視点もこれに近いと危惧しています。

  • 更には、マイナンバカードの本人確認への万全性を強調する動きがあり、そのアピールに加えて民間企業での当該情報利用を促進しようとする動き、またスマホとの連動強化といった流れも加速しようとされています。官庁主導で導入してしまったものは使わないといけないという論理には、不透明さが大きい点心配が先立つとも考えられます。記事面の都合でここまでとしますが、筆者としてはこれらの一連の流れが、関係者の満足で終わり、開発に係わるベンダ企業の懐を潤わせた期間で費やされるといった一方で、利用者への提供サービス質の退行/中間で働く事務関係者の負担増加といった方向に進まないことを願って今回の筆を置くことにします。
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  • その126: 新しい論理学の可能性について(2)

    前回に引き続き、新しい論理学の可能性についての話題です(注1)。まだ検討の方向性としての話題の段階のようです。現時点この方面の研究がどこまで進んだのかは、当欄の筆者には定かではありません。著者(Dr.プチ氏)に依れば、量子力学の論理は、ここで触れられる「四値の論理」に関係すると補足されており、昨今話題が増えてきた「量子コンピュータ」にも係わる内容になるかもしれません。筆者の今後の興味を引かれる領域となりそうです。今回も、著者の見解をなぞる形で進めます。

    プチ氏に依れば、この新しい論理学は複素整数の考え方をより正確に公理化してゆくことが一つの鍵になるだろうと考察されています。四値の論理を築くことが方向性であるということです。ここでの公理化で現れる論理の出発点は、「存在し、存在する」「存在し、存在しない」「存在せず、存在する」「存在せず、存在しない」の四つの論理命題です。ハムレット的にいえば「存在して存在しないこと、それが問題だ」という訳です(プチ氏)。証明不能の思考、感情である「わたしが存在する、わたしは愛する」という生物の論理といえるべきもの(二値の値から作り出されている機械の論理に対照される)。これは、人間のもつ「意識」を組み入れたもので、案外東洋的思想観に繋がる考え方に近い哲学とも筆者には感じられます。

    数学者ガウスが発明した複素平面においては、虚数が取入れられたことにより、平面的には別々のものとして表現(認知)されうるが、2点の間には実数で認識されるような「距離」がなく、同時に無数の複素点が無数に存在しうるということになります。同時に多くの(虚数)点が概念的に存在しうるが区別はできない「虚の存在」という訳です。一つの実数値で表現される点に無数の虚数値が対応すると認識され、それらの区別を距離概念で識別できないということ。数え上げることもできないため、実数値だけの点と0i(ゼロアイ:虚数部ゼロの点)を区別ができず、そのゼロアイ点と虚数部値がゼロでない他の点との識別が距離(位置)概念では行えず、いわば「あるとも、ないとも決定ができない」状況が概念的に存在する世界だという訳です。

    こういう世界においては、集合論の考え方も成り立ちません。区別のできないものを数え上げることはできず、同じ条件(属性)世界に含まれるのか、或いは含まれないのかといったことも判別できないからです。ある集合が、他の集合と同じである(または違っている)ことを定式化できないといった(認知的)現象が発生することになります。心理的価値観では識別できない訳です。これは、ある価値観を導入して「そうだ(Aだ)」と決めれば「そうともいえる」が、「そうだと認めたくない(Bだと言いたい)」価値観に対しては「Aだ」と納得させることができないし、一方で「Bでない」とも反論されることもできないという「意識的な世界観」を生み出す、言語表現的な領域をさまようということです。この世界をどう新しい論理で表現したら良いかという課題です。

    「面白く迷路のような世界」をどう表現できるか、この新論理学の発展を期待しています。

  • (注1) この考え方は、前回に引き続き以下を参考にした。当書籍は一見、これまでの常識を外れた話題と思われる方があると思われる。著者はフランス国立科学研究庁(CNRS)の要職を務めたバリバリの研究者で、筆者は論考内容に興味を抱いている。
    ・「宇宙人ユミットからの手紙Ⅱ」巻末資料4 論理学 p.55~61   (1994年10月 初版、徳間書店、ジャン=ピエール・プチ著、中島弘二訳)
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  • その125: 新しい論理学の可能性について

    ここのところ「デジタルコミュニケーション(DC)」「コミュニケーションデザイン(CD)」の話題を取上げましたが、これに将来関係する可能性のある領域として、新しい「論理学」の入り口について考察された論考を見つけたので、参考に紹介し、合わせて少し考えてみたいと思います(注1)

    オーストリアの数学者ゲーデル(1906-1978)が提唱した不完全定理により、「どんな言語も不完全性という、計算法が侵されているのと同じ病に苦しむことになるはずだ。つまり決定不能な命題を少なくとも一つは含んでいるはずなのである。それは数学を含めた、あらゆる言語に当てはまる(p.104)」。いわば、真か偽かという二値論理には限界があり、それを補うものとして「四値の論理」、つまり四つの真価を有する論理こそがわれわれの知識の新たなる飛躍の鍵となるべきものだ」ということが話題にされている。そして、これなしには「われわれの科学は長らく足踏み状態を続けてしまうだろう、と言うのである。四値の論理こそは宇宙空間を理解する鍵なのだ」と。ギリシャの哲学者アリストテレスの論理学から生じた合理性に依拠した世界は、ゲーデルの不完全定理により基本的原理にひびが入り、更にハイゼンベルクの原理により「同一律:事物が存在すると同時に存在しないということはあり得ない」という内容も怪しくなってくるという訳です。以下の内容は、今回の論考で触れられている内容を参考に掲載するものです。

    そして、論理学者たちにより、真と偽の間にあらゆる中間の段階を導入するような様相論理学を検討し、また「真と偽と決定不能」の三分法による論理を考えた人もいたが、どの試みも効を奏することがなく、ゲーデルの壁が存続し続けた。これを乗り越えるために焦点を当てようとするのが「複素数整数」の概念への着目であり、同一律を含めてのアリストテレス的論理学の原則全て(同一律、非矛盾律、排中律)をすべて見直そうという試みを構想しようということです。「存在してしかも存在しないこと」が有り得るという、謂わば「仏教の言質をそのまま辿るような宇宙観」とも言えそうです。「このような条件ではすべての論理操作子は四重になっており、操作子は抽象的表意文字で書き表すべき四つの操作子の協同作用に取って代わるべきものとなる」。 四種の可能性をもった真理値「(真、偽)、(証明可能、証明不能)の組合わせ」をどのように定義するかという議論となる世界。この可能性が意味することは「単に証明不能の自明の理がある」ということであり、主体を切り離しては成立しない論理、つまり「意識の論理」というものであるかも知れない。

    人は論理を用いて論証を行い、プログラムを作っている、証明可能なことは計算可能なこととして、現代のコンピュータは二進法の論理に基づいている。しかし、四値の論理からなるコンピューターは全く違ったものとなるかもしれない。つまり、もっと人間に近い思考をできるようになる素地を生む可能性を示唆する。それが現在のAI技術の延長にあるのか、或いは機械学習の世界とリンクするのかは、筆者も興味を抱くところです。論考の著者の研究がその後どれだけ進んだかについては未見ですが、その後の研究成果が期待されるところではあります。そしてそれは、今後の人間の活用の仕方に依拠する領域の話題とも考えられます。
  • (注1) この考え方は、以下を参考にした。当書籍は一見、これまでの常識をかなり外れた話題と思われるかも知れないが、フランス国立科学研究庁(CNRS)の要職を務めたバリバリの研究者による論考であり、筆者は内容に興味を抱いている。 ・「宇宙人ユミットからの手紙」資料8 今後の研究の展望 p.89 3. 論理学についての考察    (1993年6月 初版、徳間書店、ジャン=ピエール・プチ著、中島弘二訳)
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  • その124: DXのその前に、「DC」を考える(その2)

    「DC(デジタルコミュニケーション)」を題材にした2回目です。前回は「ヒト」と「非ヒト」との間の通信のやり取りとしてDCの考え方を取入れることの大切さを外観しました。今回は一歩進めて、DCとしてのヒトと非ヒト(を用いた)との間の界面(インタフェースとも呼ばれる)についての話題を取上げます。これは謂わば「コミュニケーション・デザイン(CD)」といえるでしょう。特に「ヒト」の側が、利用者としてデジタル/コンピュータの専門家でない場合に、この考え方が重要性をもつと筆者は捉えています。その利点は、(1)スムースで漏れの少ない情報やり取りの実現、(2)一般プロセスの自動化への寄与、(3)処理の不具合(エラー)発生確率の低減化、といったものになるでしょう。

    デジタル環境に馴染みの薄い一般の利用者(ヒト)とのDCを考えた場合、昨今のスマートフォン利用の拡大をベースに議論をするのが分かり易く、社会の流れに沿った話題といえるでしょう。実際、企業の多くが自社の様々な「アプリ」を提供することで利用者とのコミュニケーションを図ろうとしています。一企業とのやり取りにしても1つのアプリで済むということは少なく、極端に言えばサービスの種類毎に「XXアプリ」が提供され、利用者のスマホはアプリアイコンの山となってしまうのが現実だといえるでしょう。これまで紙で提供されていたポイントカード方式がスマホのアイコンに変わっただけで、財布の中に変わってスマホ内アプリアイコンの増大という現象です。しかもポイントカードレベルに限らず、企業との間の様々なサービス毎にアイコンが増えることになる訳で、一般利用者に取ってはスマホ資源喰いの被害発生となり、放っておけば使われないアプリアイコンの墓場という具合に成りかねません。

    そういう環境の中で「使われるアプリ」として生き残るのは、提供するサービスとの関連の分かり易さ、そしてその利用者視点での使い勝手の良さに掛かるのではないでしょうか。使いたいサービスの入り口として1つに纏まり、そこを経由すれば期待目的地に容易に辿り着け、時間を浪費せずにサービスを受けられるという点でしょう。従って、1つの企業体から提供するサービスの入り口として、複数のアプリアイコンが必要になるという事態は避けたいものです。つまりデザインという視点から、単に各サービス部署毎にアプリインタフェースを設計するのではなく、企業一元的なサービスとして、利用者とのコンタクト界面として考えるという姿勢が大切という訳です。この考え方の基礎となるのが「コミュニケーション・デザイン(CD)」であるという点です。

    このCDへの試みのためには、統一的な窓口の役割としてのサービス設計、つまりその提供のためのプロセスと部署との関連の整理、そして流れる情報、蓄積するデータ、およびその形式の明確化、サービス利用者(顧客)への分かり易いメッセージの伝え方、といった点が大切になります。つまり、筆者がこれまで書いてきているデータマネジメント要素と、それを基盤とした1つ上の要素としての利用者界面設計の融合が必要ということです。そしてこの点が、DX標榜社会においてもデータマネジメントの取組み話題を忘れてはいけないという根拠につながります。そしてこれは単なる技術的な話題に留まらず、寧ろ企業としての継続的なビジネス実現の重要要素と再認識すべき 点といえるでしょう。

    ここまで、一元的なサービスデザインという「提供者目線」から記述しました。また一方でサービス利用者側から見ると、似たような様々なサービス窓口が存在し得るということになります。しかも基盤技術の変化や、その上でサービスを提供する側の都合からの提供環境条件の変更といった事象が起きることになります。今後、デジタル技術環境で生活する利用者にとっては、必要なサービス利用、ライフサイクル視点からの棚卸しを行うといった利用者の知恵(ユーザビリティ・リテラシー)というものが、最低必要な利用者条件となる可能性が高いと考えられます。サービス提供者の努力だけに依存せず、サービス利用者側も理解度を上げることが要求される訳です。この辺りは、今後「情報環境デザイン(利用者編)」といった内容で検討したいと考えています。

  • 実際のところ、これまでの話題は、単にスマホ経由のネットワーク上での機能利用を考えるという話には留まりません。利用者としては、基盤となる通信サービスを利用できなくなった場合の代替手段についての考慮も準備しておく必要があります。これは特に、最近続けて起きている物理的通信機能障害(KDDI、Docomo、Softbank等)、そしてサービス障害(米Microsoft提供のTeamsサービス、Googleメール不具合等)の体験を通じて、対策の必要性を実感しているサービス利用者も少なくないと言えるのではないでしょうか。クラウド環境利用が増大する中で忘れてはならない点だと付け加えておきたいところです。
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  • その123: DXのその前に、「DC」を考える(その1)

    DX(デジタルトランスフォーメーション)の語は、その実質的内容が相変わらず不透明なまま、世の中で喧伝される状況が続いています。それは1つにはシステムに関係する人々の「商売ネタ」として有効であると考えられているからでしょう。筆者としては「DXのその前」に「DC(デジタルコミュニケーション)」を考察しておく必要性があると考えています。ここでのDCとは、論理(ロジック)を使って互いに理解内容を伝え合う必要がある世界でのコミュニケーションのことです。一番分かり易い例は、ヒトとコンピュータ(非ヒト)との間の理解伝達です。そのために利用されているのが、ヒト側の歩み寄り形態である「コンピュータ言語」です。これに対しヒトとヒトとの間で使われる自然言語(何語であれ)というのは便利なもので、「体(たい)」と「用(よう)」を構成する要素から成り立っていて、互いのコミュニケーション道具として重宝されています。

    ここでの「体」とは、扱う対象を表す「概念」であり、「用」とはその概念の理解を伝えるための「規則と運用形式」とから成り立つと簡単に解釈すると分かり易いのではと考えます。この「体」としての概念(例えば名詞、「猫」)というのは、それ程分かり易い輪郭を区切って明確に規定されたものではなく、自然語を利用するヒトの中(或いはそれを書き表した辞書/百科辞典)でいつの間にか経験的に蓄積・解決された定義(輪郭)といえます。「用」というのは理解した概念を伝える、或いはそれを利用した行動を他者に伝えるための約束事/規則と、その時系列的並びだと考えます。これを明示的に伝えるために「文字」が付加的に利用されると考えても良さそうです(言語学ではこの体をイメージする言語要素を「本質語」という呼び方を使うことがある)。

    現実的には「A」という呼び名そのものには、何の意味も存在しません。ヒトの側でイメージ化しある程度固定的な概念がヒトの意識の中で出来上がってきたところで、それをラベルとして「A」と呼び、このAが複数のヒトの間で共通利用されるようになって概念が流通するようになるという流れと見えます。コンピュータ言語利用においては、初めにはその「A」なる概念の実体(「体」の部分)は存在せず、これを論理としての「用」パーツで取り扱えるようにするために、「A」とはどのようなものかを伝える必要が出てきます。その仲立ちをするのがデータモデルとして概念化された情報であり、これを共通標準として操作することができるようになるということです。

    従って、この共通概念を非ヒトにうまく(正しく/漏れなく)伝えられるようにすることが「DC」の根本であると言うことができますが、課題はヒトの定義したラベル「A」そのものが、本当に概念の境界に矛盾無く組立てられたものであるかどうかという「足下を揺るがし兼ねない点」にあります。ある環境条件の範囲内では矛盾なく整理されていたと思われる概念Aが、環境条件が加わった(或いは変化した)途端に無矛盾性を保証できなくなる可能性が起きてきます。極論すればいわゆる科学と呼ばれるものは、この変化の歴史の中で進展してきたものであり、コミュニケーション対象が「ヒト対非ヒト」あるいは「非ヒト対非ヒト」に広がった時点で、更に課題領域が広がることになるといえるのではないでしょうか。
  • このDC領域を、可能な限りスムースに行えるための環境作りに貢献する活動をしてゆきたいというのが当面の筆者の願いでもあります。
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  • その122: 哲学論的、言語学的データモデリング考

    少々理屈ばった回が続きます。今回はデータモデリングを行う上で中心となる素材「エンティティ(Entity)」、日本語ではしばしば「実体」と表現される概念の話題です。この実体というのはあるキー項目(主キー:PK(プライマリーキー)と呼ぶ)で識別することができ、そのキー項目でユニークに識別されるモノ概念と、このモノを特徴付ける属性項目(アトリビュート(Attribute))の集合です。具体的には、人、犬、猫、家、飛行機、・・・といった形で、名詞語で示されれば、何となくあるイメージで想像できるモノと言えば分かり易いでしょう。人の属性は例えば、名前、性別、身長、体重、・・・を示します。この場合の主キーは「名前、性別、生年月日」の組合わせを使うことができますが(偶然、この組合わせで唯一に区別できなければ、更に項目を加える、もし1つの項目だけで識別したければ、例えば、マイナンバー、免許証番号、パスポート番号といった人工的に当て嵌めるユニークな数値を使うことが考えられます。

    ここまでで気付いたかもしれませんが、市役所や銀行で本人確認をする際にこういった身分証の提示や確認を求めるのにはそのような背景がある訳です。 他者が本人確認をするためには、本人が自分で本人だと名乗っただけでは駄目で、第三者でも分かる(保証された)識別情報が必要だというのが、概念化された世界の常識です。言語学的には、このモノの表現を先に上げたように「名詞」や、広く言えば役割に目を付けて「体言」と言います。コンピュータでモノを識別するためにこのエンティティ表現が必要で、その道具としてデータモデルが役だっています。実際には、1つのモノ概念だけでなく、例えばある取引「買った」「売った」「貯金を下ろした」とかの何らかの行動(コト概念)を表現することが必要で、これもエンティティとして表しますが、イベント・エンティティ(物事の発生を表す実体)という形容詞を付けて区別します(これに対し、モノのエンティティはマスタ・エンティティとして分類区別をすることが一般的 )。

    しかし、よくよく考えてみるとこの実体というのは案外明確に区別できるものではなさそうなことが分かってきます。例えば「色実体」を表現するのに通常コンピュータの世界では、光の三原色、赤(Red) 、緑(Green)、青(Blue) をそれぞれ256階調で区切りその3要素の組合わせで表現しています。実際の色というのはこのように有限な区分けはありませんが、実用的には十分ということで折り合いを付ける形です。そしてこの折り合いをつけた「色実体」を1つの色属性として持った「ブラウス実体」があり、そのブラウス実体を着た京子さんという「女性実体」が、代々木にあるビューティという名前の「店舗実体」で買い物をしていると表す、という具合です。しかしヒトという本人からすれば、それ程明確に日々の行動を捉えている訳ではないと見えます。コンピュータ世界は、「取り敢えずそれで間に合う」という妥協の概念世界を表すといって過言ではないでしょう。

    ヒトそれぞれの持つモノ・コトのイメージ(概念)は実際、千差万別ですから、個人個人の抱いている世の中は全く別物だといって良いかもしれません。そしてそのイメージを五感で捉えて認識しているのであれば、例えば肉眼で見た可視光線は現実波動世界の僅か数%の範囲であることを踏まえれば、本当の世界は全く異なったものだと想像することもできます。近年ホログラムで表現された世界という言葉を目にすることが増えましたが、それはこのような意味だと考えると分かり易そうです。更に言葉は、個々人で意味を想像する幅が広く、その言語が世界中に数千とあるというのですから、70億人を越えるという地球は、全く違った概念を持ったヒトの集団生活社会と考えると面白そうです。

  • コンピュータ世界を考え出すはるか以前のギリシャ哲学の頃から「実体」をどう意味づけ、概念化するかが議論されていたのですから、そう簡単にこの話題に結論を出すことはできません。ただコンピュータと係わる機会が増大している昨今、より多くの人達が「データモデリング」への興味を持つための素材喚起のきっかけとなると良いと筆者は考えています。
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    • その121: マルチバース的データモデリング考

      我々が済んでいると想像する宇宙の姿を書き表したものに国立天文台ウェブページに掲載されている「宇宙図」が参考にできる(2013年版)。ここでは「宇宙はどのようにして生まれたか?」について宇宙について解明されてきたという触れ込みでの解説と共に掲載されています。人間の生きる現在は時間的には、宇宙がいわゆるビッグバン現象により誕生してから138億年後に位置し、宇宙の大きさは現在観測される最も遠い銀河は、ハッブル宇宙望遠鏡で観測された132億光年先の銀河だとされます(1光年は秒速約30万kmの光速で1年間掛かって到達する距離)。そして「宇宙の始まり」に関しては「未解明?」のままとされています。このような広大な宇宙に散在する星々を元に肉眼で見える数千の星(主に恒星)を天球に配置した星座図も存在します、少し考えてみるとこれは視覚的に認知できる現時点の姿配置を球面上にモデル化表現したものといえます。

      しかし視覚的に認知する姿だとすれば、有限とされる光速(および電磁波速度)でも4.3年掛かる最も近いケンタウルス座α星や、最も近い大マゼラン雲状銀河が16万光年先にあるなどという多数の星々を1つの図として描いたものに過ぎず、光の届く時間差を考慮していないという点から、本当の意味での「現時点」の各々の姿を示したものではありません。これは光という媒体と五感という認識力に頼る以上仕方のないことだと考えられます。そして有限であり相対的な視点で捉えようとする限り「本当の現在の姿」を表現することには無理があるといえるでしょう。相対的な姿であるということは、この広大な宇宙の姿に限らず、時間・距離の大小に係わらないで一人一人の捉える世界の姿というのは同じものは本当は存在しないということもできるでしょう。これを筆者は「マルチバース」という考え方を当て嵌めてみたらどうかと考えています。「世界の実在は1つではない」「多様な見方の集積である」ことを余儀なくされるという意味でもあります。

      それ程に大袈裟な話に持っていかずとも、と感想を抱く方々もあるかもしれません。要は例えを利用して少し状況把握に弾みを付けたかったというのが筆者の意図でもあります。つまり、個人個人が物事・世界を捉える姿は、当たり前だと思っている世界の中でさえ大きな現実認識の違いが生まれる訳です。このような多様な世界を、できるだけ整合性がとれ整理した形の中で多くの人達が共通理解化するために「データモデル」の利用が役立つということをポイントにしておきたいという趣旨です。何気なくやり過ごし眺めている人の認識には大きな差異が生まれ、また言葉で理解していると思い込んでいる中にも隘路が潜んでいるといって過言ではないということ。言葉の定義自体にさえも認識の差が生まれるのが実状でしょう。そこに各人の思い込みや意図が加われば尚更です。

      また、このデータモデルの積極的利用という考え方には、幾つかの付加的メリットを生む期待が出てくることも補足しておきます。(a)全体的業務およびデータ構造の俯瞰的把握(地図といえば分かり易いか)、(b)データを整理する共通構造・形式の蓄積(ノウハウの醸成)、(c)重複を整理する活動を通じた断捨離の実現、(d)共通利用、繰返し活用の実現を通じた経済的メリットの実感、等々。一方、このデータモデル活用に関しては、単なる表・図式表現ソフトを利用するというだけでは難しい点も指摘しておきたいところです。多くの企業では未だに、そういったツールレベルでデータモデルを一時的に設計・管理している企業は少なくありません。大手のシステム構築ベンダといわれる所でもそのような状況でのシステム開発を行い、成果物として提示することが多くあるといえます。この点については、システム開発を依頼する立場の企業姿勢が反映されているというのが実状でしょう。

    • 一方、このような状況に気付いて旧来のシステム刷新の過程の中で、何とかデータマネジメントという軸の中で、中期的課題として取組みを始めている企業も現れています。そのような努力が結実し、 楽々システム開発の姿が遠くない将来、各方面で見ることができることを、筆者は願っています。
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    その120: データモデル管理・活用の方向性を探る

    データモデル活用展開の難しさがデータマネジメント領域の話題として出されることが、経験的に少なくありません。その理由としては、(1)数値的効果有無見極めの仕方、(2)正確な文書化維持管理の難しさ、(3)基盤知識・実務レベルでの定着化が実行できていない、といった課題として議論されることが多いと理解しています。今回は、これらの課題について考えることにします。

    (1)については、キーワードとして「再利用の視点」が大切だと筆者は考えます。システム開発プロジェクトが遂行される度に構築システム、データベース成果物としてデータモデルを作成することは基本的な結果のまとめとして常識化されているといえます。少なくとも筆者の知る範囲では、この点を否定するプロジェクトマネージャはいないといえます。しかし残念なことに、積極的にそのようなモデル化を実施している効果について胸を張って語る人に会うことは希であるともいえます。単純にモデル化文書作成に手を掛けることは余分な負担であると本音を語る人に出会うこともあります。これに対して、実は効果を生む源はモデルの共通利用にあるというのが筆者の考えです。単体のプロジェクトだけで効果を語るのではなしに、如何にモデルの共通利用を実現するかという点にポイントがあるということです。

    この共通利用を通じて、毎回1から設計を始める無駄を除くことができ、アイディアの共有化・継続性を図ることに繋がります。また成果物としてのドキュメント・図の均一性を保つことにも寄与します。単純に1種類の(統合)モデルを継続的に管理利用するという意味ではなく、モデルのパターンを様々なデータ粒度の間で活用することを考えることも共有利用のポイントであると捉えることも効果を生む要素とするのが望ましいと筆者は考えています。どれだけこの共通利用形態を取れるかで、その効果を積算する結果で大きな差が生まれます。そのためにどうするかという点が重点項目です。

    (2)のポイントは、 共通の利用を目指して そのために有効なツールを積極的に利用する、という点です。データモデルのER図等を、 所謂お絵描きソフトや表計算ソフトレベルでプロジェクト毎に個別的に作成することは(1)の共通利用の考え方にも反するものです。連携性のない文書を大量に生み出し続ける無駄を省き、統一的にツール環境で管理利用することが効果を語る上でも重要になるということです。当初は若干の投資の考え方が必要ですが、中長期的に見れば重要な視点です。勿論どのツールを選ぶかについては、専門家の知識を利用することもポイントになるでしょう。

    (3)については、 単純にいえば、技術者および管理者教育とガバナンス展開の仕組みに着目するというのが第一歩であるといえます。ここでの技術者というのは、単にデータモデルを作成する人に限ってはおらず、開発者・プロマネ・マネージャといった役割の人々を含みます。これは同一の知識レベルを展開するということではなく、大切さを認識する意識作りと動機の継続という意味での、それぞれの役割にあった知識展開という意味です。実はこの点が、データの品質を上げるという点で重要性が高い領域だと言って過言ではないと筆者は考えます。

  • ガバナンスに係わる部分は、成果物の質を組織的に維持するという点での要素だといえます。また経営者レベル、管理者レベルの意識付けという意味では、単に担当者レベルへの教育を広める以上に重要だといえます。特に企業的レベルでの継続性を高めるための要素でしょう。データマネジメントの実践は、個人の能力に期待するものではなく、組織的な活動として企業内に根付かせることが重要であるという意味で、これらの要素を真剣に取入れる企業がDX展開の話題が広がる中で増加すること、そしてそのための手伝いをすることが筆者の願いでもあります。
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  • その119: 模倣と不易流行の間(はざま)

    前回に続いて「境界を思考する」といった話題で す。2021年末から22年始めにかけて、日本文化、特に文芸に係わる話題に着目していました。その中で過去の芸術性に係わる歴史を見ると日本文化というのは海外の技法を取り入れながら、文化(美術、文芸、武道等)の多様な領域において巧みに模倣をしながら、独自の文化を創り上げることの繰返しであったという点に改めて気付かされました。様々な文化の分野で成果があることから一つ一つの内容を取上げることは避けますが、ここでは筆者が特に着目した江戸時代中期に活躍した松尾芭蕉翁(芭蕉庵桃青)を話題にしてみます。

    芭蕉翁は、寛永24年(1644年)に伊賀・上野に土豪の家に生まれ、元禄7年(1694年)に51歳で没しましたが、声高にするまでもなく今日の俳句文化に大きな影響を与え、当時の多くの門人を集めた「俳諧の道」を志した偉人といえます。魚住孝至教授の解説によれば、生涯に掛けて目指したものは「天地流行の俳諧」であり、「不易の理を失はずして流行の変に渡る」ことであったとされます。北枝の「山中問答」の中で芭蕉の教えを記した部分に「世情の得 失 是非に迷はず」とし、「烏鷺馬鹿の言語になづむべからず」とあります。「天地の流転の相を見ながら、山川草木、人間世界のものすべてについて、それぞれの本情を忘れず(中略)、変化の中に美を見出していく」という後の「不易流行」の言葉に表される思想でした(注1)。

    この稿で敢えてこれまでの主なテーマ分野であるデータマネジメントの話題から、一見関係なさそうな話題として取上げた理由は、我が国が過去に海外の文化技術の模倣から始まる部分があったにせよ、それを糧に独自の文化として昇華すしてきたことと、その象徴としての「不易流行」という語の力を見直したいと考えたからです。 言ってみれば「不易」とは、歴史の縦糸としての核なる考え方に目を向け、「流行」は、それを横糸たる成果に結びつける活動である(単なる流行に惑わされず)と筆者には理解されたということです。

    振り返って見れば、 我々は技術の導入・利用の検討に当たって、往々にして「成功事例」や「ベストプラクティス」といった言葉に惑わされ過ぎていないだろうか?、製品を販売したいベンダーの掲げる先のような言葉に引き付けられ過ぎていないだろうか?、という点です。事例情報といったものは一見、失敗の確率を下げ、導入開始までの時間を短くする、引いては短期的にコストを下げる効果があることを期待しているといえます。しかし逆に考えると、自分達の文化に合った、 中長期的な見方を放棄してしまいかねない危険性も孕んでいる点を忘れてはならないとも見えます。これは一概には決めつけられませんが、経済性視点を最優先にして考えてしまうことだけは避けたいものだというのが、日本文化の特質という点に目を向けた、今回の短いメッセージです。
  • (注1) 参考資料 「芭蕉 最後の一句 ・・・ 生命の流れに還る」 魚住 孝至(筑摩選書、2011年)
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  • その118: 主観的(サブジェクティブ)と客観的(オブジェクティブ)との世界観の境界

    改めて強調する迄もないかもしれませんが、「主観的世界観」とは各自(個人)的な視点から世の中を解釈する見方です。これに対照される視点の持ち方が「客観的世界観」であり、言ってみれば誰の目からも同一と解釈できる考え方を整理・形成し、多数を形作る人々の共通世界を表そうということです。そしていわゆる「科学的思考」というのが後者の代表であり、これを元にしたモデル世界を広めることで経済的効率性を上げることができてきたというのがこれまでの流れであるといっても過言ではありません。そして、より効率性を高める新しいモデルとそれを支える(裏付けの根拠となりえる)論拠とこれを説明する共通性の高い事例がエビデンスとして提示され、多くの人が納得し取入れ、行動と結びつけることで更にその効率性が強化されてきたといえます。

    この延長として、ビジネスの流行語として広がっている「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」の話題は、単なるデジタル技術を利用する数を増やせば良いということではないことを再確認しておきましょう。つまりデジタル化されたハードウェア、ソフトウェア環境を単に導入すれば済むということではなく、その利用形態とプロセス、その環境を流れるデータ品質の重要性を抜きにはできない話題ということです。そしてその基礎にあるのが客観的世界観を表現するモデルがベースにあるということができます。こういった共通化可能な世界観に基づくモデル設計が成功への肝であるといえるでしょう。

    一方、自由意志に基づく活動を基礎とする個人の立場から形作るのが主観的世界観である訳ですから、客観的世界観を元にしたシステム(ルール)というのは、必ずしも個人の立場からは個の自由度を下げる要素ともなり、好ましい姿であるとは限らないことになります。データを取り扱うデータマネジメントの世界では、この主観的と客観的の間の差異を仲立ちする機能としてデータガバナンスが存在すると見ることができます。この場合、効率性を重視する立場から組織的考え方(客観的世界観)が優先され、行動規則として決められたルールが優先されることになることは企業活動として否定できない流れとなります。個人にとって最適な世界と、企業としての経済活動との方向性の差異が現実的課題として現れてきます。

    規模の大きな社会(或いは企業)におけるデータマネジメント実践成功の難しさというのは、こういった人間的な世界の捉え方、科学的(システム的)な共通化を求める世界観との相反すると見える価値の世界の複雑性から生まれる課題であるということができます。こういった意味で、データマネジメント活動成功の重要性の高い要素として、企業内リーダー(通常は経営者)の積極的な関与(コミットメント)が第一に上げられるというのが自然であるということが分かります。逆にいえば、これを抜きには語ることができないということになります。

  • 他方、個人視点からの発想、アイディアというのも考え方によっては、新しい方向への第一歩として有効性が出ることもあります。従って組織的に決めたルールだからといって、それを一方的な絶対的な世界観として固執し続けることが最善だと決めつけることにも無理がありそうです。このような点からは、方針として固まり新しい方向に身動きがとり難くなりそうな大組織よりも、身軽な小中程度の組織の方が将来的な柔軟性を取入れやすいといえるかもしれません(これは一概には決めつけられませんが)。集団的知識(それを客観性と呼ぶならば)が集まり過ぎると、個人的な見方(対照して主観的というと)からの発想に及ばない可能性が出てくるといえるでしょう。これは単に効率性の問題では無いという意味で、機械的ロジックの世界で語るべき外枠での話題と捉えておくことにしたい、というのが筆者の見方だという点をここでは記しておきます。
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    • その117: 仮想世界とモデル化の価値を再考する

      世間での様々な騒動の治まりが見えない中、2022年最初の記事投稿となります。仮想化(VR、AR)、AI化の波が進展するに連れ、映画だけでなく団体・個人の送り出す動画、写真を含めたメディア利用で現実世界との見分けが難しくなってきています。いわば、”Seeing is believing"の世界観から”Seeing is not always believing"という価値観の世界に移ったといえるでしょう。人によっては、五感に頼る従来の世界そのものがホログラフィー世界であり、現実とは大きく異なると説明する方もあります(最初1999年に制作された映画Matrixの最新版が劇場公開されています。これに伴い、動画サイトでも過去のシリーズ1~3を見直すことができるようになり、筆者も改めて興味を持って見てみました。正直No.2後半から3に掛けては、映像的には面白いところがありましたが、内容的価値は薄いと感じました。やはりMatrix映画の面白みはNo.1を中心とした発想の妙にあると筆者は思います)。

      データの資産化、価値という題材を用いて様々なツールベンダーを中心とした企業の宣伝アピールが益々大きくなっている状況ですが、デジタルデータの世界はいわば仮想化した世界を辿るようなものであり、データそのものが資産だという宣伝は誇大宣伝だと筆者は考えています。利用技術を踏まえた一握りの企業および個人を除けば、このデータ技術への投資は却って物理的負債や混乱を生む源に成りかねない懸念材料と捉える方が、経営者にとっての納得感があるという方が正しそうです。僅かな成功事例といった材料をネタにしたベンダー企業の誇張した宣伝文句に乗るのは考えモノでしょう。ここでは、その難しさに関する現実的理由を幾つか上げ検討してみます。

      (1)データは持っていること自体は価値でも何でもない。それを使いこなすことができなければ単なる投資負債(ゴミ)である。つまり、それを使いこなせるような技術的知識、環境、素養を持つ人、支える組織、継続的時間にまたがる取組みといった複合的な要素が必要とされるということです。そういった備えがない状況で、例えばベンダーお勧めのツールだけを導入すれば良い訳ではない(何とかなるサは誤り)。この点では経営者の目利きが却ってモノを言う世界ということができます。但し、本当に活用できる企業にとっては強い味方であるということはできます。それだけピンからキリまでの距離が大きく隔たる世界であることは否めません。この点の見極めが難しいところです。

      (2)様々なデータを組合わせて仮想世界をモデル化し、それを維持・更新し続けることが肝要。これは環境を構築した時点がゴールではなく、そこが出発点であるということです。環境を支える技術は刻々と変化し陳腐化することを忘れてはならない。従ってこれに対応する人・技術への継続的投資が必要とされる。現状使えているからそれで良しとする企業は早晩痛い目を見ることに成りかねません(最近特に目立つ都市銀行のシステム的トラブルというのは、その典型的事例といえるかもしれません)。この意味では大きな組織ほど舵取り対応が難しいといえます。これをライフサイクルを通じて実行できる組織に強みがまれる。場合によっては不用になった資源に早めの見切りを行うことが必要とされます。

      ここで列挙した要素以外にも考慮項目は上げることができますが、少なくとも大きな要素となる3項目に対して、継続的に取組む姿勢を備えていないデータ利用環境および組織というのは、遅かれ早かれデータの負債化といった問題に直面することになるでしょう。こういう状況を支えるものとしての「モデル化」が意味を持つ話題であるといえます。これらの要素を踏まえた上で、技術的素養(技術者心理の理解を含む)を備えない経営者というのは、データ利用(または流行言葉であるDX(データトランスフォーメーション))世界では、裸の王様に成りかねないという警鐘をもったビジネス世界に住むといえるかもしれません。

      新年早々でしたが、警鐘的なメッセージになったことをお断りさせて頂きます。
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